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わたしの四国旅 (10) ドンさん

Don Weiss,USA Complete Shikoku Pilgrimage

何度も、何度も、何度でも…

「なぜまた行くの?」
「昨年も行ったでしょ?」
「何度も同じことを繰り返して、飽きないの?」

私は仕事を引退してから、毎年春になると四国遍路の一部を歩いている。そしてそのたびに同じ質問を何度も何度も受ける。私はいくつかの返答を用意していて、質問者やその時の気分によって使い分けている。

本気モード:

  • 最近これらの札所には行っていないんだ。
  • このトレイルのこの部分を歩くのは久しぶり。それにルートについて皆から質問されるから。
  • 歳を取る前に何度でも行きたいんだ。
  • できるだけ多くの巡礼者に会って話をしたいんだ。
  • 決して飽きたりしたい。常に新しいものがあるから。

半分真面目モード:

  • ○○寺までの坂道をまだ歩いて登れるかどうか確かめたいんだ。
  • ○○寺の桜を見たい。
  • ○○寺の紅葉を見たい。

お気楽モード:

  • 妻には休暇が必要なんだ。
  • 最近、本当においしい「カツオのたたき」を食べていないから。
  • なぜなら、そこにあるから。

最後の言葉は私のお気に入りだ。ジョージ・マロリー(英国の登山家)が、多くの記者から度々尋ねられたときの言葉。
「なぜエベレストに登りたいのですか?」
「なぜなら、そこにあるから」。
私が巡礼をするのは「そこにあるから」だ。何度も、何度も、何度でも。ダメかな?

巡礼について初めて読んだのは、そう1980年のことだった。 日本での1ヶ月の休暇を計画していたので、ガイドブックを買った。その本は400ページもあって、四国全体のページが7ページほどあった。そこには「四国を訪れる外国人は少ない。もし行けば、白装束のお遍路さんが古来からの八十八ヶ所巡礼の道を歩いているのを必ず見ることができる」と書いてあった。この言葉は私の脳裏に焼き付いている!

私は我慢できなかった。日光、京都、etc…の後、大阪からフェリーで徳島に行き(当時は橋がなかったので、電車もバスもなかった)、鳴門まで電車で行き、翌朝、坂東に行って、霊山寺(第1番札所)に行く道を見つけた。

霧に包まれた日だったが、どういうわけかまさに完璧だった! 雨が麦わら帽子から滴り落ち、私は気づいたら、見晴らしの良い丘、青々とした緑、収穫されたばかりの田んぼが広がる風景のなかを歩いていた。まさに私が思っていた巡礼の風景そのものだった。そして最初の5つの寺を巡った後、私はコピーした地図に記されていた古い宿のドアをノックした。

覚えていた10個の日本語のフレーズ(私が知っている日本語すべて)を思いつく前に、若い女性がドアを開け、私を見て、”May I help you? “と尋ねてくれた!!!!!!! この3週間の日本滞在で、英語を多少なりとも話せる日本人は6人しか会わなかったのに。完璧だった! そして、その日は超超完璧な1日となった。宿の夕食で、(チョコレートの次に)私にとって世界一好きな食べ物となった「カツオのたたき」を紹介されたのだ! これは高知県の名物だが、日本全国で食べられる。

カツオのたたき

その旅で訪れたのは12寺(1~10、30、38番札所)だけだったが、私は夢中になった。それから13年後、私は日本に、四国に、徳島に、そしてあの宿に戻った。そこはもう宿泊施設ではなかったが、マネージャーとは10年来の文通で友人になっていた。私はそこに2週間滞在し、その間、彼女が教師の仕事と家を探すのを手伝ってくれた。それから2年後、私は仕事を辞めてお遍路を2回歩いた。

実はこの2年間で、週末や休暇を利用して、私はすべてのお寺を訪れた。特に日本ウォーキング協会と一緒に歩いたことで、巡礼に詳しい多くの人々と知り合うことができた。  私は30歳代だった。会のメンバーのほとんどは60歳以上(多くは70歳以上)だったが、私は決して歩くのが速いほうではなかった。そんなことはどうでもよかった。私はお寺を見て、美しい田園地帯を散策するために参加したのだ。

寺院で一泊することもあった。当時は宿坊が今よりたくさんあった。ある時、住職が夕食の前に一行に話をし、最後にこう言ったのを覚えている。「皆さんは巡礼者として、巡礼中に怒り、セックス、アルコールを避けるという誓いを立てたと思いますが、ささやかな例外を設けましょう」。すると、給仕たちが100本のビールを運んできた!

日曜遍路時代には、こんな素晴らしい思い出もある。雨の週末だった。電車に乗り、バスに乗り、室戸岬の 最御崎寺(24番)の近くから歩き始めた。スタートが遅かったので、津照寺(25番)の手前にある旅館、太田屋までしか行けなかった。そこでの一泊は、素敵な部屋で、雨に濡れた洗濯物を干し、向かいの漁港で獲れた魚を中心とした人生で最高の食事を朝夕2回食べた。

翌朝、まだ雨が降っていたが、私は津照寺を訪れ、それから金剛頂寺(26番)まで歩いた。雨は木々や寺の屋根、そして私の衣服から滴り落ちた。私の靴は水たまりでぐしゃぐしゃになった。雨と霧の中、すべてが完璧に見えた。私を除いては。私が寂しげに見えたに違いない。私と同じ歳くらいの男性が近づいてきて、今日の予定を尋ねてきた。彼のつたない英語と私のつたない日本語、そして彼はこう言った。「私と一緒に来なさい。」そう、彼は車を持っていた!

彼は車を持っているだけでなく、スケジュールも把握していた。ある寺から次の寺まで車で何分かかるか、その寺で何分滞在するか、このうどん屋で昼食、次の寺にはこの時間に到着……。田園地帯を走り抜け、雨の中を走り抜け、私は自分の漠然としたスケジュールにはなかった4つの札所を追加で訪れた後、帰りの列車に乗るために高知駅に着いた。ほとんど濡れなかった!

2年間の教員生活を終え、正月明けの寒く晴れた朝、私は遍路道に向かった。その日は霊山寺(1番)から切幡寺(10番)のすぐ下までの24キロを歩いた。このプランは初めての人にはお勧めしないが、私は最初の10ケ寺は何度も訪れていたので、ひとつの札所に15分以上かける必要はないと思った。そして翌朝、切幡寺を訪れ、それから山に向かって歩き、大窪寺(88番)に行き、長尾寺(87番)に向かって下った。

数日後、雲辺寺(66番)の住職を含め、「どうして逆打ちをするの?」と聞かれた。
「他の巡礼者と会って話したいから」と私は言った。
「たくさんの人に出会った?」
「ほとんどいなかった」
今も昔も、真冬に巡礼する人はほとんどいないのだ。

それで、一度回った後、徳島で3週間休養し、それからまた旅に出て「通し打ち」で回った。春になったので巡礼者にも多く出会った。ジェフリー・チョーサー(英国の詩人)は600年以上前に4月についてこう言った。 ”Thanne longen folk to goon on pilgrimages.”(そして人々は巡礼に憧れる。)
私は旅を平成5年5月5日という覚えやすい日付で終えた。

私はカリフォルニアの家に帰ったが、また四国へ戻ってきた。そしてもう一度家に帰り、また戻ってきて、お寺に住み、英語を教え、日曜遍路をした。そしてまた家に帰って、また戻ってきて、日曜遍路の繰り返し。結婚もしたけど、また帰ってきての繰り返し。そして私は仕事を引退した!

というわけで、私の日曜遍路の日々は終わった。代わりに、私は季節巡礼者になった。1年のうち10ヶ月は徳島にいる。妻はまだ働いているので、買い物と料理はほとんど私がやるし、体調管理のために眉山を歩いているが、毎年春と秋にはお遍路に行きたいと思っている。アメリカで言うところの「セクション・ハイカー」だ。10月中旬か下旬、そして3月下旬から4月初旬にかけて、私は荷物を背負っていつもの場所から姿を消す。電車で出発地点まで行き、そこから歩く。

実は、最近は歩いて巡礼するばかりではない。電車やバスで10キロ、20キロ、50キロと移動することもある。友人と行くこともあれば、一人で行くこともある。一カ所に5日以上滞在し、その日の最初か最後にバスや電車を乗り継いで、近隣の寺院を訪れることもある。映画『ジャック・スパロウ』に出てくる海賊の掟のように、巡礼にはガイドラインはあっても本当のルールはない。(伝統の多くは20世紀に考案されたものだが、それはまた別の機会に)。

お遍路に行ったり、他のお遍路さんと話したりする中で、私は2つの興味深く重要な日本語表現を学んだ。ひとつは「四国病」。お遍路を何度も何度も歩くことは、一種の中毒であり、一種の病気なのだ。もうひとつは「四国病院」。病気を治すために行くところ。つまり、お遍路中毒になったら、お遍路そのものである「四国病院」で適切な治療を受ければいいのだ。

さて、夏の暑さから秋雨へと移り変わる頃、私は秋の巡礼を夢想する。今度は岩本寺(37番)から薬王寺(23番)まで歩こうと思う。今回は、これまでスキップしてきた番外*や奥の院**にも行ってみよう。  いつも何か新しいもの、あるいは私が好きな古いものがある。

「なぜ逆打ちで行くの?」
他の巡礼者に会うために
「なぜまた行くの?」
なぜなら、そこにあるから!

*番外: 四国遍路に関連があるが公式な番号を持たない札所。番外札所。
**奥の院:番号のついた札所のほとんどに奥の院がある。