四国遍路の歴史

修行と信仰の道

四国遍路がどのように始まったのかは、実は定かではありません。
空海が定めたとも、弟子や民衆が空海を追って四国を巡ったのが始まりであるとも言われています。

文献に現れるのは797年の空海の著作『三教指帰』、続いて12世紀の『今昔物語』や『梁塵秘抄』。
四国は「辺地(へち・へぢ)」と表現され、これは辺境の地・端っこの地、といった意味ですが、修行僧や修験道の行者などが、呪力・霊力を身につけるための修行の地を求めて、海洋信仰と山岳信仰の両方が存在する四国に渡ってきたと考えられます。
ただし、四国には行場は無数にあり、この段階では八十八という数字は明確ではありませんでした。

「辺路(へんろ)」という表現の初出は1280年の『醍醐寺文書』。
12~15世紀のあいだ「高野聖」という旅僧が、真言密教の聖地・高野山への募金活動のために四国を巡り、弘法大師信仰の確立と遍路道の形成に大きく寄与したと考えられます。当時は飢饉が頻繁におこり多数の餓死者が出る厳しい社会情勢。民衆が宗教にすがりついた時代でした。

庶民に開かれた遍路

現在のように八十八ヶ所を巡拝する形態と「四国遍路」という名が確立したのは、16世紀末から17世紀頃。
1653年に澄禅による旅行記『四国遍路日記』や、1687年に真念による四国遍路ガイドブック『四国遍路道指南』が大衆向けに刊行され、大ロングセラーに。

さらに歌舞伎や浄瑠璃でも「四国遍路」が取り上げられ、次第に庶民へ浸透していきました。
江戸時代は社会が安定し、沿道施設の整備や交通手段が確立し、旅の安全性が高まったことから、裕福な観光遍路が出現するようになりました。
一方、犯罪や不治の病などで故郷を追われた人々が、施しを受けながら四国遍路を終生続けるという一面もありました。

本物の体験を求める旅

19世紀中盤以降は、政府の宗教政策や戦争の影響で低迷したり、戦後の高度成長期にはブーム化したりと、時代の変化につれ四国遍路も盛衰を繰り返しながら今に続いています。
現在は、車やツアーバスなどを利用して回る人、宗教的な意味を求めずレジャーや自分探しのために回る人、踏破にこだわらずランダムに回る人など、移動手段や動機、方法は人それぞれ。それでも、自らの足で歩いて回る人はいなくなりません。

四国の変化に富んだ自然に囲まれ、自分と対話しながら歩き、地元の人々や各地からの巡礼者と交流する旅。近年のアドベンチャーツーリズムの潮流と相まって、本物の体験を求める旅人を惹きつけています。
四国遍路は、現在進行形で今も変化を続けています。