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わたしの四国旅 (20) ダンさん

Dan Koei, USA Undertaking the Shikoku Pilgrimage as a Practice of Shugendo

小さなアドバイスと小さな一歩

遍路について調べると、寺院の名前やご本尊、装束、遍路用品など、果てしないリストのコレクションのように思えます。紙の上ですべてを眺めていると、圧倒されるように思えるかもしれません。ただこの感覚には、日本で修験道と真言宗を研究するこの数年間で慣れてきました。 寺院や神聖な空間を訪れた後は、細部を見ているだけで目が溶けてしまいそうになります。

このテーマに関する本を読むと、同様の感覚が生まれます。 理解すべき経典、真言、儀式の作法、特別な用語、地域のバリエーションは無限にあるように思えます。 威圧的ではありましたが、最初に私が修験道に惹かれたのは、修験道の威厳と壮大さ、そして自然界との関わりに重きを置いていることが理由でした。

ある時、幸運な縁が重なり、私が住んでいた埼玉からそう遠くないところに修験道場があることを知り、訪問することにしました。その道場は、多くの修験道場がそうであるように、壁一面に聖像が飾られ、真言密教の修行のための不思議な形の道具がピカピカと光り、錦の衣服や装飾品が飾られていました。私はすぐに引き込まれました。私の修験の師となった道場主との会話で、彼の百科事典のような知識は私を謙虚な気持ちにさせました。

最初の面会の終わりに、私は修験道の修行を希望する人にとって、最初の一歩として何が適切かを尋ねました。私はてっきり、あのような衣服や儀式用具を購入することを勧められたり、ビジュアル化やヨガのテクニックに取り組むことを勧められたりするのだろうと思っていました。彼のアドバイスに私は驚きました。
「まずは外に出て、鳥のさえずりを聞いたり、風を感じたりして、意識を自然に向けることです」。

その後、真言宗の僧侶としての叙階式の日、私は式典を手伝いに来ていた別の修行者に会いました。彼は僧侶であると同時に修験者としても有名で、日本のほぼすべての霊山に登り、最も厳しい修行僧院のひとつで10年間高野山に取り組んできた人物です。話の途中、彼は私の目を見てこう言いました。「いいか、最も重要な修行は毎日できる修行だ。寝る前の般若心経でも南無大師遍照金剛でもいい。小さくてもいいんだ。やることが大事なんだ」。​

私は他の同様の著名人からも同様のアドバイスを受けたことがありますが、その度に私は不意を突かれてしまいます。何千キロも山を登り、何日も修行し、何時間も滝に打たれたのに、それなのに1日1回の般若心経を勧めるのか? 鳥の声に耳を傾けることを勧めるのか?

即効性のあるもの、派手で、複雑で、壮大なものに私たちは惹かれがちですが、このようなアドバイスには深い知恵があります。仏陀ご自身も、私たちの修行を大工の斧の柄をたとえて、同様のことをおっしゃいました。毎日この工具を使用している大工は、柄が磨耗していることに気づきません。 彼は突然、そこに自分の指と親指の痕跡があることに気づきました。 言い換えれば、何度も何度も繰り返し行うことで、多くの場合、進歩に気づかないまま練習を重ねることが、最終的に結果につながるのです。

遍路やすべての巡礼は、このダイナミズムを学ぶものだと思います。 ガイドブックや地図、リスト、総距離や寺院の数、納経帳の白紙のページなどを見ていると、その旅は乗り越えられないように思えるかもしれません。 しかし実際には旅など存在しないのです。 常に一歩、そしてまた一歩、そしてまた一歩だけがあるのです。時にはほんのわずかな自信の火花によって動かされることもあるが、時にはかすかな自信の輝きだけを頼りに、時には仏陀や巡礼の力そのものを信じながら。

今では、私の家はむしろ道場のようになっています。縁のある仏像が何体かあり、遍路や修験の装備もすべて揃っており、僧侶の装備もいくつかあり、豪華な法具もいくつかあります。 しかし、そのどれもが、私にふさわしい規則正しい修行の基盤がなければ、意味がありません。 遍路を歩くことで、私たち全員がこの貴重な教訓を学んでほしいと願っています。どの一歩も重要だとは感じられませんが、その一歩一歩がなければ目標は達成できないのです。

南無大師遍照金剛